早稲田経営学院・“Wセミナー”の総帥として34年もの間君臨し、年商120億までにした男は、徳島のデケンボ(勉強ができない子ども)だった。人生の道を切り開くことができたのは、思わず笑ってしまうほどの、えげつない「プラス思考」と「行動力」によるものである。
13.高校生時代―初めての挫折
1958年(昭和33年)頃は、高度成長期の中でもとりわけ勢いがあり「岩戸景気」といわれた。各企業はこの頃から技術・管理・販売部門の拡大に乗りだし、大企業へと成長していく。また、この景気の波に乗って、起業して成功する者も続々と現れた。それらの繁栄の中心は、言うまでもなく東京だ。この限りない可能性を秘めた東京に、思いを馳せる若者は少なくなかった。
豊彦は、徳島では名門の進学校にもぐり込んだものの、55名いるクラスでの成績はいつも50~53番だった。地元の期待を一身に担う教師や成績優秀者から見れば、どうでもいいポジションだったが、なぜかブービーと最下位にだけは一度もなったことはない。中学時代は、ごまかしごまかしの日々を送っていたが、高校になると半ば公然とサボるようになった。小遣いがのある時の行き先は、もっぱら映画館であった。しかし。高校3年ともなると、進学校らしい周囲のざわつきもあって、さすがに自分の進路について考えるようになった。18歳の田舎少年なりに様々な可能性について検討したはずだが、どんなに考えても、具体的なビジョンと呼べるものは、何一つ出てこなかった。その代わりに、これだけはどうしても譲れないという思いがあった。「東京に行きたい!」彼にとっての大学進学は、郷里を出て上京するための方便に過ぎなかった。専門的に学びたいことがあったわけでなく、将来に向けて学歴武装をするつもりでもなかった。まさに、あいまいでいい加減な動機といえる。さて、大学への進学を決めたら、志望校選びとなるわけだが、いくらアホな高校3年生でも、当時、試験科目が8科目だった国公立系は、ハナから無理なことくらいわかる。準備がゼロに近いのだから、的を絞り込むことにした。その結果、「東京にある」「試験科目が3科目程度の私立系」「一流もしくは有名」という3つの条件にかなう数校を選んで、片っ端から受験することにした。しかし、現役受験は全敗。現実は甘くはなかった。
準備不足では、箸にも棒にもかからない。いくら数を打っても、それなりの実力がなければ、お話にならないのだ。実に当たり前のことだが、不覚にもこの時まで気が付かなかった。豊彦は、初めて挫折感を味わった。
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