早稲田経営学院・“Wセミナー”の総帥として34年もの間君臨し、年商120億までにした男は、徳島のデケンボ(勉強ができない子ども)だった。人生の道を切り開くことができたのは、思わず笑ってしまうほどの、えげつない「プラス思考」と「行動力」によるものである。
14.浪人時代―絶体絶命から這い上がる
1959年(昭和34年)、皇太子殿下(今上天皇)が正田美智子嬢とご成婚。初の平民からの皇太子妃は国民から熱狂的に迎えられ、ご成婚パレードでは沿道に53万人の群衆が詰めかけ、祝福の嵐だった。日本中で“ミッチー・ブーム”が巻き起こり、急激な景気上昇も相まって、日本の世相が一気に明るくなった。一方、徳島の田舎少年は、暗闇の中をさまよっていた。
生まれて初めて敗者の気分を味わった豊彦は、半ばやけ気味に、「東京へ行くことが目的だ。先に乗り込んでしまえ!」と、大手ゼネコンに就職が内定していた兄を頼って上京し、浪人生活をスタートさせた。そして、代々木にあった受験予備校に通い始めたが、大教室からはみ出した人、人、人の多さに圧倒され、さらには、あちらこちらから聞こえてくる標準語、特に「だからさ~」という東京弁が非常に大きなストレスになった。根っから田舎少年の彼は、すさまじい劣等感にさいなまれ、講義にわずか2回出席しただけで、早々に見切りをつけ、一目散に郷里に逃げ帰った。悪いことは、重なるものである。生家に帰ったら帰ったで、あれほど繁盛していた家業が傾いていた。「お前は、大阪の人形問屋へ丁稚に行け」という話が親戚筋から持ち上がったりしたが、それは何とか父がとりなしてくれた。豊彦は、実家の3畳間に引きこもったまま、ひとり、この世の終わりのような気持になっていた。わがままを聞き入れてくれた家族の期待に応えられなかったことや、予備校に前納していた半期分の授業料を無駄にしてしまったことが、情けなく悔しかった。しかし、くよくよしていても、仕方がない。さあ、リベンジだ!彼は、挫折から立ち直るために2点だけを自分自身に課した。「志望校は、私立文系の最難関にランキングされていた早稲田大学・政治経済学部の一つに絞る」、「1日10時間勉強して、週に半日休む」。それからは、旺文社のラジオ講座を毎夜聞いて、疑問点を解消しながら理解を深めた。俗世間を離れて修行に励む坊さんのように、10ヶ月におよぶ自宅学習を淡々と続けた。とにかく勉強する時間がないので、暗記に頼ってばかりはいられない。ここで、かの「思考型」の勉強方法が復活したのだ。その結果、直前期に東京の予備校で公開模試を受けた際、苦手な英語で「81点」を取って、1番に躍り出ることができたのである。そして、志望校に、無事合格した。
後年、成川は言う。現役受験の全敗、憧れの地・東京からの敵前逃亡、それに家業の倒産などの現実が次々と折り重なって、自分を見直してみると、何者でもない自分がそこにいた。勉強嫌いを鼻にかけていた徳島の田舎少年だった私は、自己嫌悪にどっぷりと浸りながら、ここが底だと見定めた。敗者復活のストーリーは、このとき始まったと言える。「口惜しさだけが自分を強くする」と、後に気づくことにもなった。それにつけても、予備校で、成績優秀者に名を連ねたときの喜びが、昨日のことのように懐かしい。あらん限りの力をぶつけて無心に頑張ったことは、何歳になってもいい思い出として残るものだ。
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