早稲田経営学院・“Wセミナー”の総帥として34年もの間君臨し、年商120億までにした男は、徳島のデケンボ(勉強ができない子ども)だった。人生の道を切り開くことができたのは、思わず笑ってしまうほどの、えげつない「プラス思考」と「行動力」によるものである。
9.中学生時代―詰込み式勉強を放棄
終戦から8年足らずの間に、日本は、国際社会と文化交流をもつまでになった。アメリカで開催されたミスユニバース世界大会に出場した日本代表の伊東絹子が3位入賞。また、当時ヨーロッパで最も勢いのあったファッション デザイナーのクリスチャン・ディオールが来日し、海外ファッションの導入が始まった。一方、敗戦時には、海外在住の軍人も民間人も凄惨をきわめ、命からがら大挙して引揚げてきたが、残留を余儀なくされている人々も数知れずいた。その中には、息子の復員を信じて、ソ連のナホトカ港からの引揚船が入港する度に、復員名簿にない息子を、「叶わぬ願いと知りながら、もしやもしやにひかされて」と、毎年6年もの間、東京から京都・舞鶴までやってきて岸壁に立つ母親をモデルにした流行歌「岸壁の母」が人々の涙を誘った。世相は、一見希望へと向かっていたようでも、暗い部分もまだまだ残る時代であった。
当時の豊彦は、大人に対して時として矛盾を感じ、学校での詰込み方式の勉強方法に抵抗を示していた。中学生時代は、ただひたすら、自転車で市内から郊外をくまなく巡回する毎日だった。それは、特に深い意味があってのことではない。学校での勉強はほとんど放棄していたため、他にすることがなかったからである。彼が、勉強嫌いだったその理由は、試験があったからである。試験を勝負事と捉えれば、ファイトも湧いてくるが、試験で問われる内容が何のために必要なのか、当時の彼にはさっぱり分からなかった。それに、試験でいい点を取るためには、数学の公式や歴史の年号などを暗記しなければならない。勉強する目的がハッキリしないまま、とりあえず目先の成績を上げるために、英単語や化学記号などを頭に詰め込むことがどうしても納得できない。幼心に、「それは理不尽なことだ」と感じて、極力勉強しないように努めていた。これが、当時の豊彦少年の、生き方だった。
この筋金入りの、勉強嫌い・試験嫌いのデケンボが、後年、司法試験・公務員試験などの超難関とされる国家試験の受験生を、合格に導く仕事をすることになるのだから、人生、どう転ぶか分からない。それは、豊彦が、30歳を目前にして、「学びの欲求に目覚めた」ことによる。学びに、年齢は関係ないし、誰にでも平等にチャンスはある。思った時が、スタートなのである。肝心なのは、気付いた時に、即実行するかどうかにある。それで、人生が決まるといっても過言ではない。
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