早稲田経営学院・“Wセミナー”の総帥として34年もの間君臨し、年商120億までにした男は、徳島のデケンボ(勉強ができない子ども)だった。人生の道を切り開くことができたのは、思わず笑ってしまうほどの、えげつない「プラス思考」と「行動力」によるものである。
16.大学生時代―成績優秀者に学ぶ
安保闘争の責任をとる形で岸陣営が退陣し、池田内閣が誕生。その政権下で、「所得倍増計画」を打ち出した。敗戦の復興がようやく一段落した当時、資本力の弱い日本の産業が世界市場とわたりあったり、給料が倍になるなどありえないと、政治家から庶民誰もが思っていた時期だった。それでも、池田首相は強く推し進めた。その結果、経済の上昇は予想をはるかに超え、戦後日本経済の驚異を生むことになった。そして、敗戦を経験した国民に、自身と誇りを取り戻させた。若者たちは、この頃から未来に希望を見出し始めたのではないだろうか。
豊彦の大学生時代は、アルバイトに専念した4年間だった。それでも、試験はついて回る。大学のテストは、中学・高校時代のように、すべてをカンニングで乗り切るというわけにはいかないので、「実績ある伝統」と、「良き隣人」に期待することにした。まず、「実績ある伝統」とは、学部地下にある、暇な学生たちがたむろする小さな部屋に保管されている膨大な資料をあさることだ。そこには、先輩たちが残したノートやレポート、試験問題そのものがストックされていて、重要な過去問集に巡り会える宝庫だった。次に、「良き隣人」とは、クラスでダントツに成績が良かったSくんのことである。試験シーズンが近づくと、豊彦は、なけなしのお金でさりげなく、彼に食事をおごり始める。そして、試験本番10日ほど前になると、自宅通学だった彼の家に押しかけ、母親の前で、彼のことをほめちぎったのだ。「Sくんは、学年で1番ですから」「たいしたもんです」。すると、自然と、「いつでもいらっしゃい」という雰囲気ができあがる。そこで、彼は1番できる人のノートを拝見・拝借する機会を得、ついでにポイントとなる箇所についてレクチャーを受けることができたのだ。コピー機などない時代、ノートを写すのは、すべて手作業だったが、時間に追いまくられて必死に手書きすることによって、にわか仕込みながら理解力・暗記力がグングンと深まった。「受験勉強は、手仕事のひとつ」。これが、彼の持論だ。学習効果をアップさせるためには、日に日に進化する便利な情報機器を利用することも大切だが、最終的なアウトプットは、自分自身の手で行う以上、手をこまめに動かくことが必須なのである。
豊彦は、自らあみ出した「思考型の勉強方法」で、高校入試と大学入試を突破してきたが、大学時代は、それほど活用することはなかった。彼が、学ぶ重要性に気づくのは、もう少し後になってからのことである。ただ、学部地下にストックされていた過去問集には、助けられた。同じ問題が出たのにビックリ。このことが、後年、日本一のセミナーを作ったコアが、“過去問研究”であったことに、影響していく。そこで、成川は思った。もし、大学の時真面目に勉強していたら、違った人生になっていたかもしれない。しかし!今ほど面白い人生にはなっていなかっただろう。
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