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早稲田経営学院・“Wセミナー”の総帥として34年もの間君臨し、年商120億までにした男は、徳島のデケンボ(勉強ができない子ども)だった。人生の道を切り開くことができたのは、思わず笑ってしまうほどの、えげつない「プラス思考」と「行動力」によるものである。
2.商人(あきんど)デビュー
豊彦は、日本の国号が、“大日本帝国”と呼称されていた最後の世代である。その頃まで、富国強兵政策の一環として、「産めよ殖やせよ」で、子沢山の家が多く、日本は子どもが溢れかえっていた。そして、敗戦となるが、子どもを増やす世情は変わらず。そのため、成川人形店は大繁盛で、お雛様だの五月人形などが、飛ぶように売れていた。国も復興ラッシュなら、成川人形店もいまだ毎日戦争状態で、父母と従業員、さらに子どもたちも総出で働き、常にごった返していた。
当時は、商家も農家も子どもは放ったらかし、かつ、いい働き手であった。豊彦も5歳であったが、よく働いた。それは、コツコツやる指示待ちではなく、何かを瞬時に察知して、要領よくこなすタイプだった。まだ5歳ゆえ、経営発展ため、合理的計画を構築し、利益をもたらそうなどとは考えもつかなかったはずだ。それは、持って生まれたカンの良さというか、習性なのかもしれない。喧嘩で兄弟を泣かした時など、理由も聞かず、泣かした方をパチンとたたく父親であった。そこで、この4男坊は、すぐに学習し、次からは、泣かした後はパチンとくる前に、その逃げ足の速いこと速いこと! 良し悪しはともかく、すばしっこさだけは超一流だった。
豊彦は、大人に混じって家業を手伝ううちに、感じ取るものが多々あった。母親が“営業本部長”として、良家の夫人、小料理屋のおかみ、農家のおばあちゃんなど、誰に対してもそつのない接客で、どんどん売り上げるさまに、豊彦は目が釘付けになり、柱の陰からジーっと観察していたものだった。彼女は、現代でいう、売り上げて“ナンボ”のプレイング・マネジャーであった。また、丁稚には階級があって、やり手の古参と中堅以外の、能力のない者や新参者は、食事も風呂も最後でみじめなものだった。食事は、5交代制なのだが、最後の方は、食べ散らかした後で、ごはんもおかずも残り少なくなっている。風呂も、当時はシャワーなどないので、最後の方は、入れたものではない。能力の違いで、人生が左右されてしまうのか。豊彦は、まだ幼い頃から、資本主義社会の厳しさを、見せつけられていた。商魂のたくましさは、この頃から培われたものだった。
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