早稲田経営学院・“Wセミナー”の総帥として34年もの間君臨し、年商120億までにした男は、徳島のデケンボ(勉強ができない子ども)だった。人生の道を切り開くことができたのは、思わず笑ってしまうほどの、えげつない「プラス思考」と「行動力」によるものである。
6.阿波踊りを撮る超大物カメラマンに学ぶ
四国徳島といえば、阿波踊り。毎年お盆になると、「えらやっちゃ、えらやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ~、踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃそんそん」と大騒ぎだ。この踊りについての起源は諸説あるが、戦国時代末期の藩祖・蜂須賀家政が、徳島城の落成祝いに、城下の町民に「城の完成祝いだ、好きに踊れ!」と、無礼講を許したのが始まりというのが有力らしい。踊るグループの事を「連(れん)」というが、徳島県には、協会に属する有名連が多数あり、その他にも企業連、大学連、仲間内の連がある。また、小・中・高校の多くは、体育の授業や体育祭などで「阿波踊り」を演目としている。まさに、阿波踊りの陽気な感覚は、徳島県人のDNAとして、何百年もかけて受け継がれていると思われる。
豊彦の通う学校も、阿波踊りを採用していたので、よく運動場で練習をさせられた。集団行動がきらいな彼だったが、阿波踊りだけは、おはやし「よしこの」のリズムに乗せて、大喜びで踊ったものだ。豊彦が小学校の4年生頃だったろうか、三味線、太鼓、篠笛などのにぎやかな伴奏につられて、成川人形店の2階の窓から、踊り歩く阿波踊りの行列を見ていたら、「坊や、ちょっと場所を貸してね」と、1人の紳士が入ってきた。そして、立派なカメラを構えて、阿波踊りの様子を、様々な角度から、スピーディーに撮りだした。その様子から、子どもでも、プロのカメラマンであることは分かった。動きには一切の無駄がなく、その胸のすくような仕事ぶりに、「かっこいい大人だな」と少年はしばし見とれていた。その紳士は帰りしな、ニコッと笑って「ありがとうね」と言って頭をなででくれ、去っていった。その人は、誰あろう、戦後の日本を代表する写真家の一人とされる故・土門拳氏であった。
豊彦が、超一流の人物に遭遇したのは、この時が初めてで、田舎の少年にとっては、かなり刺激になったに違いない。動きに無駄がなく、人格もすぐれていることを、子どもなりに感じ取り、あんな大人になりたいなと思ったものだ。あれから、半世紀を優に過ぎた。豊彦は、土門氏のことは妙に心に残っており、写真展や資料館があったなら、いつか行きたいと思っている。
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