早稲田経営学院・“Wセミナー”の総帥として34年もの間君臨し、年商120億までにした男は、徳島のデケンボ(勉強ができない子ども)だった。人生の道を切り開くことができたのは、思わず笑ってしまうほどの、えげつない「プラス思考」と「行動力」によるものである。
4.宝探しの小さな名人
戦後の日本は、復興でおおわらわだった。成川人形店は、幸いなことに戦火を免れ、活気を取り戻していた。従業員は、丁稚、家事手伝いなど、30人ほどだった。ほとんどが、山奥の出身で、次男坊以下の、放ったらかしで育った者ばかりである。当時、そのような若者の勤め先といえば、男は大工かとび職、女は下働きか水商売が主であった。成川人形店に勤めるということは、現代でいう百貨店勤務というところか。農作業しかしたことのない田舎の少年少女が、徳島の都会・中央部で、接客サービス、文化的な人形製造の技術者、行儀見習いともいえる家事手伝いに従事するのは、ちょっとしたエリート気分だったであろう。多少、苦しいことがあるにせよ、胸を張って過ごしていたと思われる。
豊彦の父母は、従業員と子ども達のために、年に1.~2回慰労会を開いてくれた。広い日本間で、ずらりと並んだご馳走を食べ、皆でワイワイと大喜び。宴たけなわになった頃、メインイベントの“宝探し”が始まる。現在の価値の1,000円から上は1等賞10,000円が小さな袋に入れられ、敷地内のいたるところにあらかじめ隠されている。ヨーイドンで探すのだが、豊彦は、いつも決まって、1等賞か2等賞だった。「こらぁ!豊彦!おかあさんに教えてもらったやろ!」と、兄弟・姉妹から大ブーイングだった。もちろん、親に聞くことなどしていない。なぜか、隠し場所が、察知できたのだ。
これは、動物的カンなどという単純なものではない気がする。世話をする人、この場合は父母なのだが、その性質・嗜好・行動など複雑に絡み合ったものが、豊彦の頭に無意識にプログラミングされており、瞬時に解析した結果と思われる。その点は、他の兄弟・姉妹より秀でていた。それは、幼くして1人だけ里子に出されていた経験が、人間や物事を、客観的に見ることができる素養となり、さらに発展したものと思われる。いわば、“いらん子”(1人くらい欠けても、気にされない子)の、生き残りの技だったのであろう。
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