早稲田経営学院・“Wセミナー”の総帥として34年もの間君臨し、年商120億までにした男は、徳島のデケンボ(勉強ができない子ども)だった。人生の道を切り開くことができたのは、思わず笑ってしまうほどの、えげつない「プラス思考」と「行動力」によるものである。
4.小さなはぐれ犬
昭和天皇による玉音放送から15日後、連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立った。当時、それはそれは、衝撃的なものだった。日本は、敗戦から7年間ほど、マッカーサー元帥率いるGHQの占領下に置かれ、非軍事化、および民主化が進められた。明治時代より、大日本帝国として、軍国主義の負け知らずで来たのに、太平洋戦争では壊滅的な惨敗。そして、昨日の敵国による指揮の下、戦争放棄を強いられ、「基本的人権の尊重」となったわけだ。落ち着くまでには、大きな混乱があったと思われる。豊彦世代は、まさに、そのような社会背景の中で、成長期を過ごすのだった。
豊彦は、小学校に入学するも、人と群れを組むのが嫌いで、集団・つめこみ方式が苦痛でたまらなかった。おまけに勉強嫌いのデケンボときている。「子どもは、何のために勉強するのか?」「大人の世界は、どうなっているのか?」などと、勉強そっちのけで、小さな頭で思考したものだ。どう考えても、学校へ行く理由がない。そこで、“いかにしてうまく学校を休む”かが、彼の小学校時代の一貫した“テーマ”だった。豊彦少年は、すぐに“最良”の方法を見出した。まず、学期中の許容欠席数を割り出す。「2週間に1日が、怪しまれないだろう」と思い、ぬかりなく実行に移した。注意点として、連続して休むことは、目立つため極力避けなければならないとのことだ。知恵を使って獲得した“貴重な時間”は、たった1人で、大好きな市内の商店街リサーチと、眉山の奥の奥や、津田の海岸の白浜を見に、歩いてまわるのだった。
このような習性をもつ“小さなはぐれ犬”は、大日本帝国時代には、適応しがたいと思われる。どうにかギリギリのところで、民主主義国家に居合わせることができたのは、幸運だった。今まで、自分だけ里子に出されたことが、何か、引っかかっていた豊彦だったが、幼いながら、「人生捨てたものでもない」と思った。
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