早稲田経営学院・“Wセミナー”の総帥として34年もの間君臨し、年商120億までにした男は、徳島のデケンボ(勉強ができない子ども)だった。人生の道を切り開くことができたのは、思わず笑ってしまうほどの、えげつない「プラス思考」と「行動力」によるものである。
8.門前の小僧は、回収率100%
戦後は、民主主義の導入で女性にもさまざまな権利が認められ、靴下やストッキングも技術の向上で耐久性が上がり、「戦後、女性と靴下は強くなった」が流行語となった。女性が、少しばかり目立ったりすると、お決まりのようにこのフレーズが使われたものだ。しかし、豊彦の母親は違っていた。元々、強かったのだ。彼女は、成川人形店の娘で、物心つく頃から、家業をバリバリこなし、結婚後も最強の“プレイング・マネジャー”として君臨していた。ちなみに、結婚相手は、大店の例に倣い、従業員の中で一番優秀な男性を婿養子として迎えている。その両親の下、大勢の従業員もよく頑張って、店はいつも大盛況であった。
当時の商家の例にもれず、成川家の兄弟姉妹も、子供の頃から店の手伝いをしていた。彼らは、学校の成績がかなり優秀だったが、商いにかけては、デケンボの豊彦には誰もかなわなかった。そのことは、両親も認識していたらしい。父は、少額の集金は、いつも小学校4~5年の豊彦を指名した。3ヶ月に1回ほど、汽車に乗って、四国の真ん中にある池田市、高校野球で有名になった池田高校があるところのあたりまで集金に行かされるのだ。1回につき3軒位回り、現在の価値にすると1軒5万円~10万円位を集金した。どこに行っても、「坊や、よう来たね。大変やったやろ。」と言って、お駄賃の草餅などをくれて、かわいがってくれた。もちろん、代金もすぐに支払ってくれて、なんと!回収率は、100%!集金が終わったら、帰りには何を食べてもいいと言われていたので、豊彦は、美しい景色を眺めながら、地元のおいしい“サバ煮込み定食”を食べ、もらった草餅をデザートに、一人、至福の時を過ごすのだった。かなりの年月が経った頃、豊彦は、どうして子どもなんかに、集金に行かせたのだろうか?と考えた。なるほど、子ども相手では、払わないわけにはいかないということか。父も、なかなかやるなと思うのだった。また、豊彦は、店内のお客様に人気があった。こまっしゃくれて「毎度どうも」などと言っては笑わせたり、母や従業員が接客している際に、お客様の視線を察知して、希望の商品をサーッと手元まで用意するのだった。
商家で育った子どもは、仕舞た屋(シモタヤ:商売をせず、比較的裕福に生活する家。役人や家主・地主が多い。)の子どもとは違っていた。門前の小僧よろしく、日々見聞きする商いのノウハウが、知らず知らずに体にしみ込むようだ。豊彦は、後年、新聞記者を経て、企業家になるわけだが、幼い頃からの環境は、企業人として、かなりの「予習」になっていたと思われる。
この記事へのコメントはありません。