早稲田経営学院・“Wセミナー”の総帥として34年もの間君臨し、年商120億までにした男は、徳島のデケンボ(勉強ができない子ども)だった。人生の道を切り開くことができたのは、思わず笑ってしまうほどの、えげつない「プラス思考」と「行動力」によるものである。
17.新聞記者時代─文章術の誕生
豊彦(23歳)が、新聞記者を目指して、デビューしようとした昭和39年は「東京オリンピック」が、開催された年である。東海道新幹線が開業され、スポーツでは、巨人軍の王貞治が、年間55本のホームランを達成した。戦争の敗戦国であった日本は、復興を成し遂げ、上げ潮の「高度経済成長」に突入して行った。
その数ヶ月前、彼は新聞記者になって、社会人デビューをしようとしていた。今でいう、‘‘就活‘‘である。大学時代、実家からの仕送りを期待せず、兄から毎月、わずかな生活費をもらっていただけだった。そのため、アルバイトが忙しく、就職希望のマスコミは、2社しか受験することができなかった。運よく、産経新聞社へ潜り込んだ。学科の成績は、一般教養などで、ドロップ・アウトしかかっていたが、望みの仕事に就くことができたのは、彼の要領の良さという「天性」によるものであろう。
東京本社入社後、すぐに研修先の大阪本社に異動となった。そして、編集局の「整理部」へ配属。
新聞記者といえば、社旗をなびかせた、黒塗りの社用車に乗って、事件現場を飛び回る、華やかなイメージがあるが、日々の仕事は地道な作業の積み重ねである。特に、配属された「整理部」はまさしくその通りであった。薄い紺色のダサい作業着を着て、先輩の取材記者が送ってきた「原稿」をまとめる作業をひたすら続けるのだ。一分一秒を無駄にできない、締め切りとの戦いだ。何がなんでもやらなければ、新聞が発行できないことになる。23歳は、責任感を胸に抱きながら、汗水たらして働いた。そんなドロくさい現場作業で1年を過ごし、山口支局へ転勤になった。1ヶ月後のある日、当時の首相、佐藤栄作氏が、ある式典に参加した様子を取材した。式典が終わった後、首相が記念植樹する姿をカメラ撮影しようとしたが、なぜか、「ストロボ」が発光しないのだ。「困ったな~」、これでは写真が撮れず、記事にできないと思った。とっさに「総理~、ちょっと待ってください!」と大声で叫んだのだ。その瞬間、総理大臣のSPからは、ものすごい顔で睨まれた。しかし、歌舞伎役者のような大きな目の佐藤さんは、ニッコリ笑って、「いいよ、いいよ」と言ってくれた。そのおかげで、撮影に成功できた。強面という、一般の評判とは、全く違う人柄であった。
豊彦にとって、「新聞記者」1年目の「整理部」での経験は、縁の下の仕事だが、貴重な体験であった。そのおかげで、ピントの合った見出し、シャープな記事作りは、お手のもの。その手腕を生かして、「スクール東京」で、「日本文章術検定」講座を誕生させた。そして、「日本語」「文章」を誰よりも大切にしている彼は、独自のノウハウとして、「瞬間添削術」をあみだした。
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