早稲田経営学院・“Wセミナー”の総帥として34年もの間君臨し、年商120億までにした男は、徳島のデケンボ(勉強ができない子ども)だった。人生の道を切り開くことができたのは、思わず笑ってしまうほどの、えげつない「プラス思考」と「行動力」によるものである。
12.高校生時代―プロジェクト・リーダー
1956年(昭和31年)7月に発表された経済白書には、もはや「戦後」ではないと記述され、流行語となる。その頃市場に出始めた、テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫は、「三種の神器」と呼ばれ、人々のあこがれであった。庶民の家庭では、「我が家には電気冷蔵庫があるが、隣の家はまだないらしい。」などと、ちょっと優越感にひたる光景が見られたものだ。大繁盛の成川人形店は、比較的早いうちから揃えられたが、電気屋からテレビが届いた時は、子ども達や従業員、さらには近所中が大騒ぎで、皆テレビの前に集まり、白黒の小さな画面に釘付けとなった。箱の中に“いる”人間が、動くのである。何という感動か!豊彦は、特に近代的かつ躍動的な東京の様子や”力道山”の“空手チョップ”に、ショックを受けた。新聞やラジオとは違い、目で見る東京は、無限の可能性が感じられた。
豊彦は、高校入試に向け、土壇場で開発した「思考型」の勉強方法を続ければよかったものを、合格してしまえばシメシメと、元のデケンボに戻ってしまった。そして、相変わらず勉強には反逆精神を気取っていた。かといって、何もしないで試験の本番を迎えるほどの度胸はなかった。中間テストや期末テストの2~3日前になると、同じクラスのK君の家の2階に、“できない仲間”3~4人が集まって、カンニング・ペーパーを作るのだった。その“プロジェクト“は、いつも豊彦がリーダーシップを取って分担を決める。誰一人無駄話をせず、夜中まで根を詰めて真剣に取り組み、完璧な仕上げとなった。エネルギーを出し切った後は皆ヘトヘトになり、普通に勉強していたほうが、よっぽど楽だったのではないかと思うほどだった。彼は、また、教室の机にも、細心の注意を払って細工をした。うっすらと鉛筆で書いておいて、光の角度、見る角度によって、答えが浮き上がってくるようにするのだ。会心の出来栄えを、ついうっかり学生服の袖で消してしまって泣きたくなったことがある。彼自身、その不正行為は2度ほど露見した。他の“できない仲間”も何度か教師に現場を押さえられたが、いずれも追試で免罪となった。田舎だけではなく、日本中にまだおおらかさが残っていた時代の話である。
豊彦を含む“できない仲間”は、勉強に関してはパッとしないが、カンニング・ペーパーの“プロジェクト”に関しては、プロの編集者を彷彿とさせる、胸のすくような「仕事ぶり」だった。能力に関わらず、目的意識を明確にして段取りが整い、一致団結すれば、事は達成できるものだと、豊彦は思った。動機の点では感心できないが、彼が、初めてプロジェクト・リーダーになった瞬間であった。
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