早稲田経営学院・“Wセミナー”の総帥として34年もの間君臨し、年商120億までにした男は、徳島のデケンボ(勉強ができない子ども)だった。人生の道を切り開くことができたのは、思わず笑ってしまうほどの、えげつない「プラス思考」と「行動力」によるものである。
7.デケンボの知恵
1951年(昭和26年)にサンフランシスコ講和条約が調印され、日本は、連合軍からの占領を解かれ、独立国家として復帰した。まだまだ貧しかったものの、徐々に明るい方向へ向かい始めた。NHK紅白歌合戦が始まり、プロ野球初のオールスター・ゲームが開催された。街頭テレビには、そこに映る、日本最強のプロレスラー・力道山を見たさに、大勢の人々が群がった。「必殺技の空手チョップ」で、大柄な外国人レスラーをなぎ倒す姿に、敗戦の傷跡が残る日本人は、やんやの喝采を送るのだった。今まで、趣味や娯楽から遠ざけられていた日本も、ようやく文化に触れる世相へ移りつつあった。
豊彦も、映画という文化に熱中した。小学生の頃から、市内の映画館を片っ端から“はしご”をし、さらに汽車に乗って郡部の映画館を観て回った。映画館めぐり、連続40日という記録もある。当時、成川人形店の向かい側に、名劇映画館というのがあり、商店同士のよしみで、成川家の者は月に1~2回、映画を無料で観ることができた。豊彦は、しおらしく「お願いしまーす。」と切符切りカウンターを通過して、映画を楽しんだ。しかし、1~2回では満足できない。さらに、無料で入場すべく、切符切りの係員がトイレに行った隙だとか、係員が新人の時を狙って通過するのだ。古株の係員には、顔を覚えられているため、見つかると、「今月は、もうダメでしょ!」と叱られる。また、アベックを見つけると、カウンターから見えない側へ回り、その子どもになりすまして手をつなぐふりをしながら、通過するのだった。そんなこんなで、その映画館では、無料通過成功率は月間60%・回数6~7回というところだった。片岡千恵蔵に美空ひばり、マーロン・ブランドにケリー・ダンカンなど、画面の中には、キラ星のごとく輝く大スターがいた。時には、スターを生で見ることもできた。新作映画の挨拶で、徳島に時代劇スター・大友柳太郎が来た時のことだった。開演前に、20個ほどのリンゴを、客席に向かって投げるサービスの際、豊彦は、タタタッと走り出て、サーッと一番前に進み出て構える。そうすると、スターも苦笑いして、そこに投げざるを得ない。すばしっこいこと、この上なかった。
豊彦の小学校時代は、映画に明け暮れていた。誰に教わるでもなく、自らの知恵を使って学校を休み、それを映画鑑賞にあてる。まるで、大学生ではないか。デケンボにして、やることは成人クラスの恐るべし子ども!良し悪しは別として、豊彦の場合、目的に向かって創意工夫をする姿勢は、評価に値するし、「結果」も出している。確かに感心できる行動ではないが、このことから思うことがある。「単なる詰め込み式の教育では、知恵は生まれない」。
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