早稲田経営学院・“Wセミナー”の総帥として34年もの間君臨し、年商120億までにした男は、徳島のデケンボ(勉強ができない子ども)だった。人生の道を切り開くことができたのは、思わず笑ってしまうほどの、えげつない「プラス思考」と「行動力」によるものである。
22.早稲田セミナー時代─知的財産との出会い
1974年(昭和49年)に、豊彦が、早稲田経営学院(Wセミナーの前身)を創業して、およそ10年後、国内では、「グリコ、森永事件」が、世間を騒がせた。また、日本は、世界一の長寿国となる。
彼は創業から1日15時間、働く。そんな毎日を365日。がむしゃらに続けていた。「これで、ようやく軌道に乗ったかな」と感慨に似た気持ちが胸をよぎったのは、41歳のときである。その頃、毎朝の通勤に使っていた西武新宿線の車内で、「生涯の師」と出会う。時折、見かける60歳すぎの男性が、いつも英文のコピー資料に目を通している。席に座っている時、吊り革や手すりにつかまっていても、淡々と熱心に読み込む姿からは、一種独特のオーラが発せられている。当時、彼も仕事に、必要な会計と経済学の勉強を、車内でしていた。負けん気の強い彼は、「負けないぞ!」と勝手なライバル心を燃やしながら、静かな「紳士」の存在感に圧倒された。ある日、街角で出版社主催の講演会のポスターに釘づけになる。電車で見かけるその人は、日本における憲法の第一人者であり、アメリカ合衆国憲法の研究者としても高名な、芦部信喜先生だったのだ。先生は、東京大学を退官されて、学習院大学で、名誉教授となり、講座を開設されていた。働き盛りのイケイケだった彼は、わが日常に舞い込んだ意外性に驚くと同時に、喜びに似た気持ちで非常に得心する。生涯の師は、彼に「人間、一生、勉強」ということを、さりげなく、身をもって、教えてくださった。車中における通勤の時の出会いから、5年後の春、学習院大学の正規の聴講生となり、1年間、週2回、火曜日と木曜日に各90分の授業を受けた。46歳、サクラの季節であった。朝から晩まで、Wセミナーで仕事をしていた彼は、目白のキャンパスに、通う時間を作るのに苦労した。そんな時、師は「成川学院長は、お仕事があるのだから、まっさらな気持ちで、受講していただいたら、それで結構です。ゆっくりとやってください」と、励ましの言葉をくださる。1年間に及ぶ勉強は、数年後、600ページに近い『成川式択一 六法 憲法編』となって実を結んだ。豊彦は、日頃のお礼に、先生を、三島由紀夫の小説『宴の後』で有名になった料亭へ招待させていただいた。この作品は、憲法13条後段の個人のプライバシーを侵害している根拠となったものだ。そのことについて、師は静かに、弟子に語り始め、大広間に飾られていた女将の仏壇を感慨深く眺めた。
同じ頃、豊彦は、高校の大先輩で、元最高裁判所判事の環昌一先生に、Wセミナーの顧問に就任していただいた。裁判官、検察官、弁護士、法務省の官僚を歴任。顧問をお願いした時、「年金をもらっていますので、顧問料はいらないです」といわれた。晩年になっても、研究熱心、専門の法律だけでなく、経済の分野でも精通されていた。気持ちが大きく、本物のインテリだった大先輩を、粋で、かっこいい人だと憧れた。
起業後、「生涯の師」と「高校の大先輩」と出会えたことは、豊彦にとって、大きな「知的財産」となっている。何歳になっても、貪欲に、新しいチャレンジをすることを教えていただいた。そのことを、現在、「個別指導」を中心とした‘‘スクール東京‘‘で、彼は、身をもって後進に指導している。
この記事へのコメントはありません。